昔と今の出産の違いを知ろう!江戸時代の出産や離婚事情を紹介
現代の世の中は文明が進み、どんどん便利になっていきますね。毎日の生活で、ふと「こんなとき、昔の人はどうしていたのだろう?」と、不思議に思うことはありませんか?今回はそんな「昔」の中でも、日本の江戸時代の人々がどのように妊娠、出産を経て生活を営んでいたかを一緒に見ていきましょう。
江戸時代の驚くべき出産について知ろう
江戸時代、初産の女性の平均年齢
江戸時代では、女性の初婚年齢は平均すると18~24歳までの間で、現代に比べるとやや早婚になりますね。出産もおよそこの年齢からスタートします。
ただし、富裕層ほど結婚、出産の年齢が早く、逆に貧しい家庭は初婚年齢が20代後半~30代と、現代とほぼ変わらない年齢だったといわれています。
これは、貧しい家庭の子どもは幼い頃から奉公(ほうこう)といって住み込みの使用人として裕福な他家で働くことが多く、奉公の期間を終えてから結婚することになるためと考えられます。
出産場所や産婆さんについて
妊婦さんは産屋(うぶや)と呼ばれる家の外にある納屋で出産しました。なぜ家の外かというと、出産は新たな命の誕生の喜びもあるのですが、大量の出血という穢れ(けがれ)も産み出されると考えられていたためです。当時血を流す行為は忌むべきものと捉えられていたのですね。
赤ちゃんを取り上げるのは医師ではなく産婆(さんば)さんと呼ばれる女性で、資格などはなく、器用で出産経験が豊富な高齢女性の役割だったそうです。
ちなみに産婆さんは唯一、大名行列を横切っても許される存在でした。いつの時代も出産はそれだけ急を要する大事なことなのですね。
なぜたくさんの子どもを産んだの?
こうした多産の背景には、現代と違い医療が未発達のため乳幼児の死亡率がとても高かったことが挙げられます。子どもが1歳になるまでの死亡率は20~25%といわれ、4人生まれたとしても1人無事に成人するか…というシビアなものでした。
昔は「子どもは7歳になるまでは神の子」といわれ、子どもが無事に大きく成長することがとても大変な時代でした。子どもの命は神様に委ねられているとして、親はいつでも子どもを亡くす覚悟をしていたそうです。七五三で子どもの成長を祝うのも、このような考えからきています。
江戸時代の分娩方法や産後の過ごし方
江戸時代の驚きの分娩方法は?
江戸時代では妊婦は横にはならず、座ったまま出産をしました。産屋の中では布団を丸めたり、俵を置いたりして寄りかかって座れるようにセットされ、天井からは「力綱」と呼ばれる太い縄が吊るされ、妊婦はそれをつかみ、しゃがんでふんばる姿勢をとりました。ちなみに力綱は事前に夫がセットしてくれることも多かったそうです。
当時、夫の立ち会い出産というものはほとんどなく、男性は出産に関しては蚊帳の外でした。産屋で妊婦を助けたのは、産婆さんと妊婦の母親、姑、近隣の出産に慣れた女性たちでした。
この女性たちは、妊婦が疲れたときに体勢を支えてあげたり、水分を与えたり、励ましたりと出産の手助けを行いました。
前置胎盤や逆子の場合はどうしていた?
日本で初めての帝王切開が行われたのは1852年、江戸時代後期に入ってからといわれています。記録によると、赤ちゃんは死亡してしまったものの、母親の女性は88歳まで生きていたそうです。この江戸時代後期あたりから、徐々に難産に対する医療技術が進歩していきますが、明治時代でも出産は若い女性の死亡理由のトップでした。
現在の日本は世界の中でも新生児や妊婦の死亡率がとても低い国です。医療の発展はすばらしいことと改めて実感しますね。
産後の女性の過ごし方は壮絶
まず、産後の女性は7日間眠ってはいけなかったそうです。「頭に血が上る危険がある」との理由で、横になることもできず、椅子や高く積んだ布団に寄りかかって座ったまま過ごしたそうです。眠りこけてしまいそうになったら周りの女性たちが話しかけて起こし、限界がきたときは気付け薬を使ったといわれています。聞いているだけで辛そうですね。
また食べ物にも制限があり、当時の出産を終えた女性が口にしてよいものは少量のおかゆとかつおぶしのみと決まっていました。